20万年前
2万年前
5~6千年前
2千年前
900年前
200年前
明治10年
明治18年
明治22年
明治29年
明治40年
明治42年
大正9年
大正14年
昭和7年
昭和9年
昭和13年
昭和24年
昭和26年
昭和31年
昭和39年
昭和40年
昭和42年
昭和45年
昭和48年
昭和53年
平成元年
平成10年
令和元年
「松濤」地名の由来 1986年(昭和61年)撮影
〔写真1〕写真提供:渋谷区
〔写真2〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
明治維新後、渋谷から武士が去り、武家屋敷跡は官有地や桑茶畑などの農地となり、農業の最盛期を迎えます。「松濤」も、紀州徳川家下屋敷跡に茶園「松濤園」があったことが地名となりました。東京市中の高級茶として名を馳せましたが、1890年(明治23年)東海道線の開通で、静岡茶などが流入することで、茶業は終息に向かいます。
〔写真〕茶畑での農作業の様子(猿楽町)
渋谷駅誕生
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
赤羽から品川までを結ぶ、日本鉄道品川線(現在のJR山手線)ができたことを発端とし、渋谷駅が開業しました。当時、上野駅止まりだった東北本線と、新橋駅止まりだった東海道本線を連絡することを目的に建設されました。
〔写真〕明治42年頃の渋谷駅
市制町村制施行で渋谷は3村へ
1871年(明治4年)の廃藩置県以降、東京の行政区は変遷を繰り返していきます。
1878年(明治11年)には15区6群(360余町村)でしたが、1889年(明治22年)の市制町村制施行による町村合併で、15区6群(85町村)となります。
このとき、渋谷も8村(麻布、赤坂の一部を含む)から、渋谷村、代々幡村、千駄ヶ谷村の3村となりました。
渋谷3村は豊多摩郡に所属
江戸時代、日本橋から甲州街道の最初の宿場が「内藤新宿」(現在の新宿)でした。この町を中心として、南豊島郡は東多摩郡と合併して、豊多摩郡が生まれます。渋谷3村もその下に引きつがれました。なお豊多摩郡は、現在の新宿区、渋谷区、中野区、杉並区の一部にあたります。
渋谷3村が町制を施行
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
明治後期、渋谷東側地域は宅地化が進みます。渋谷3村も村から町になっていきました。
1907年(明治40年)千駄ヶ谷村が千駄ケ谷町に、1909年(明治42年)渋谷村が渋谷町に(この年、各戸に電灯がつきました)、1914年(大正4年)代々幡村が代々幡町になりました。
〔写真1〕渋谷町役場
〔写真2〕千駄ヶ谷町役場
渋谷区誕生
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併し、他の79町村と同時に東京市に編入されて、渋谷区が誕生しました。交通網の発達に伴い住宅地区として発展し人口は223,573人でした(60年前の1872年(明治5年)は約7,500人)。急速な都市化を受けて20区が成立し、当初の15区と合わせて東京市は35区となりました。
〔写真〕渋谷区誕生時の庁舎(旧々庁舎)の写真とパース
東横百貨店がオープン
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
1934年(昭和9年)11月、渋谷初の百貨店であり、関東初の私鉄ターミナルデパートとして、東横百貨店が誕生しました。ヨーロッパ建築に影響を受けたモダンな「白亜の建物」が駅のシンボルとなりました。急速に変貌する渋谷にあって、この百貨店も2020年(令和2年)3月31日に、85年の歴史にピリオドを打ちました。
〔写真1〕建設工事中の東横百貨店
〔写真2〕竣工した東横百貨店
玉電ビル(現:東急東横店西館)がオープン
撮影:佐藤 豊
4階建ての玉電ビル(現:東急東横店西館)がオープンしました。1934年(昭和9年)の東急百貨店オープンと合わせ、上野や浅草で買い物をしていた人々が渋谷に集まるようになり、渋谷発展の第一歩となりました。
〔写真〕建設工事中の玉電ビル(現:東急東横店西館
東急文化会館から渋谷ヒカリエへ
〔写真1〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
〔写真2〕写真提供:渋谷区
〔写真3・4〕撮影:佐藤 豊
渋谷駅東口に東急文化会館が開館されました。地下1階・地上8階の建物は、映画館4館、結婚式場、美容室、そして最上階には戦後初となる大型プラネタリウム「天文博物館五島プラネタリム」が設置され注目を集めました。2003年(平成15年)に閉館となり、現在は渋谷ヒカリエとなっています。
〔写真1〕東急文化会館 1956年(昭和31年)
〔写真2〕東急文化会館 1981年(昭和56年)
〔写真3〕文化会館跡地、ヒカリエ建設
〔写真4〕渋谷ヒカリエ竣工
国立代々木競技場 1964年(昭和39年)9月
〔写真1〕写真提供:渋谷区
〔写真2〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
世界初の「吊り屋根構造」を用いて、着工から18カ月という短工期で完成しました。同年に東京オリンピックが開催され、渋谷区では国立代々木競技場、渋谷公会堂・体育館、選手村などの主要施設がオリンピック会場として整備されました。
〔写真〕オリンピック当時の旧区役所
代々木公園が開園
〔写真1〕写真提供:渋谷区
〔写真2・3〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
1967年(昭和42年)10月、「渋谷フェスティバル」の会場となる代々木公園が開園しました。なお全園の開園は1971年(昭和46年)4月です。代々木公園は広さ約54haで、23区内の都立公園としては5番目の広さです。代々木公園は道路を挟んで南北に分かれ、北側は森林公園のA地区、南側は野外ステージ等があるB地区です。
〔写真1〕開園当時の代々木公園(A地区)
〔写真2〕開園当時の代々木公園(B地区・背後は建設中のNHKホール)
〔写真3〕開園当時の公園内を通る放射23号線道路
代々木公園が開園
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
1909年(明治42年)から1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結までは、この場所は、陸軍の代々木練兵場でした。1910年(明治43年)12月19日、この練兵場で国内におけるヒコーキの初飛行が記録され、「日本初飛行の地」の記念碑が置かれました。
〔写真1・2〕初飛行の様子と記念碑
代々木公園が開園
〔写真1〕写真提供:渋谷区
〔写真2〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
太平洋戦争後は、アメリカ軍の兵舎と駐留軍家族の居住地「ワシントンハイツ」(合衆国空軍ワシントンハイツ団地)として利用されました。
〔写真1〕ワシントンハイツ内部
〔写真2〕ワシントンハイツ(現区役所あたり)
代々木公園が開園
写真提供:渋谷区
ワシントンハイツは1964年(昭和39年)に返還され、その年の東京オリンピックの選手村として一部が使用されました。オリンピック終了後に、跡地が代々木公園として整備されました。今も原宿門近くに選手村の記念宿舎が残されています。
渋谷区内で歩行者天国スタート
〔写真1〕写真提供:渋谷区
〔写真2〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
道玄坂と文化村通りで、1970年(昭和45年)から2002年(平成14年)に歩行者天国が実施されました。家族連れや若いカップルで賑わいました。
渋谷区内で歩行者天国スタート
〔写真1〕写真提供:渋谷区
〔写真2〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
原宿では、原宿駅交差点から表参道交差点間で歩行者天国が1971年~1996年まで行われ、「竹の子族」「ローラー族」やストリートパフォーマーなど、若者文化の発信地となっていました。
渋谷パルコ開店
〔写真1〕写真提供:渋谷区郷土写真保存会
〔写真2〕撮影:佐藤 豊
「パルコ」とはイタリア語で「公園」を意味します。人々が集い、楽しんだり、くつろいだりする公園のような場所になるようにと思いを込めて名付けられました。施設のみではなく街そのものをデザインすることで、人をひきつける「まちづくり一体型」の開発が行われました。
〔写真1〕パルコ・オープン
〔写真2〕ロフトからパルコに連なる街並み
第1回渋谷フェスティバル開催
第1回「くみんの広場」を開催する
渋谷区役所新庁舎が開庁
2015年に旧庁舎を解体し、2016年から建設工事を開始した、15階建ての庁舎が開庁しました。
最小限の移動で手続き等ができる窓口、ユニバーサルデザインの導入、自然の力を活用した環境にやさしい庁舎、そして災害時の活動拠点となる庁舎です。
竹の子族が登場
原宿の歩行者天国に出現し、ハーレムスーツ等の奇抜で派手な衣装に身を包み、ディスコ音楽に合わせてステップダンスという踊りを披露した。最盛期は1980年から1981年あたりで、全国各地から多くの見物客が訪れた。
渋カジが流行
「渋カジ」とは「渋谷カジュアル」の略で、「シンプルで飽きのこない定番アイテムを品よく着こなす」という基本コンセプトを基に団塊ジュニア世代を中心に流行した。ポロシャツ、ローファー、ジーンズ等のシンプルなアイテムを着用していた。
空中ケーブルカー「ひばり号」運行
撮影:赤石定次
東急東横百貨店の屋上から出発して、玉電ビル屋上で折り返す(下車はできません)、
空中ケーブルカー「ひばり号」(定員12名)が運行されました。
乗車できるのは子どもだけで大変人気がありました。
運行期間は1951年(昭和26年)から1953年(昭和28年)の1年半でした。
プラネタリウムの街・渋谷
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
東急文化会館(現:渋谷ヒカリエ)屋上の「天文博物館五島プラネタリウム」は、約9,000個もの星を大型ドームに投射し、過去から未来の星空を再現でき、最新の宇宙の知見を紹介する解説が行われる画期的な施設でした。
この投影機は現在、文化総合センター大和田館内に展示されています。
〔写真1〕五島プラネタリウム全景
〔写真2〕プラネタリム内の様子
ナウマンゾウ、原宿を歩く
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
渋谷は浅い海底でした。1971年(昭和46年)原宿駅付近で、この時代のナウマンゾウの化石が発掘されています。
〔写真〕ナウマンゾウ化石復元(神奈川県立生命の星・地球博物館)
渋谷は赤土の原野
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
氷河時代の終わりごろ、東京湾は干上がり、荒涼たる赤土の原野だったようです。
〔写真〕イメージ:赤土の代々木練兵場
渋谷の台地で生活が始まる
5~6千年前になると、今より暖かい気候となり、渋谷の谷間には海が入り込み、台地には草木が繁る豊かな時代を迎えます。ヒトは台地で木の実、芋、小動物、魚、貝などを集めて生活していました。
代々木八幡遺跡 1958年(昭和33年)撮影
写真提供:渋谷区
1950年(昭和25年)、標高約32メートルの台地上にある代々木八幡宮の境内から、石器時代の多数の遺物とともに、竪穴式住居跡が発見されました。約4500年前の生活が伺える、この古代住居は区指定史跡として復元・保存されています。なお代々木八幡が建立されたのは、1212年(建暦2年)鎌倉時代です。
猿楽古代住居跡
写真提供:渋谷区
1977年(昭和52年)、渋谷区立猿楽小学校の隣で弥生時代の住居跡が発見されました。稲の籾(もみ)の形が残る土器から、約2000年前に渋谷でも稲作が始まったことがわかりました。
金王八幡宮 1983年(昭和58年)撮影
写真提供:渋谷区
平安時代末期の武将 河崎基家は、前九年の役(11世紀後半)の戦功により武蔵国谷盛庄を領地とし、現在の金王八幡宮のあたりに館を構えました。その後1092年(寛治6年)、基家の子、重家が京都の宮中警護で賊徒を捕らえた功により「渋谷氏」の姓を賜ります。この後領地の中に「渋谷」という地名ができたといわれています(地名の起こりは諸説あります)。
渋谷金王丸像(金王八幡宮所蔵)
写真提供:渋谷区
渋谷金王丸は、渋谷重家の子として渋谷の地で育ちました。渋谷氏の豪傑として、戦記物語や芝居に登場し、合戦における奮闘ぶりが描かれています。金王丸は主人である源義朝の死後、僧となり、義朝の菩提を弔ったとあります。
文化総合センター大和田・伝承ホール寺子屋「渋谷金王丸伝説」
葛飾北斎・富岳三十六景「穏田の水車」
写真提供:渋谷区
江戸時代の渋谷は、東側に武家屋敷が連なり、西側は郊外へと続く農村地帯でした。渋谷川、玉川上水、三田用水という水資源が集まることから水車業が盛んでした。1831年(天保2年)から版行された葛飾北斎の富岳三十六景の一つ「穏田の水車」では、今の原宿・神宮前の農村地帯を流れる渋谷川の水車と人々の生活、それを静かに見守る富士山が描かれています。約50年後の1888年(明治21年)には渋谷の水車は32カ所に達します。
渋谷から見える富士山
写真提供:渋谷区
渋谷区も高い建築物に囲まれるようになり富士山は見えにくくなりましたが、少し前までは、江戸の昔と変わらない美しい富士山の姿を見ることができました。
明治神宮鎮座祭
撮影:佐藤 豊
明治45年に明治天皇が崩御され、代々木が鎮座地に選定され、1915年(大正4年)から造営工事が始まった明治神宮が、1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭を迎えました。今年2020年は、鎮座百年祭を迎えます。
〔写真1〜3〕イメージ:明治神宮(昭和30年代)
渋谷駅前にハチ公像が置かれる
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
1934年(昭和9年)4月、渋谷駅前に忠犬ハチ公像が置かれました。その除幕式には、ハチ公自身も参加しました。
鉄道網が相次いで開通
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
明治後期以降、渋谷をとりまく鉄道網も次々に開通していきました。渋谷区が誕生する前の様子をご紹介します。
1904年(明治37年)千駄ヶ谷駅開業
1906年(明治39年)代々木駅、原宿駅、恵比寿駅開業
1907年(明治40年)玉川電鉄開通(渋谷~玉川間)
1913年(大正2年)京王線開通(笹塚~調布間)
1927年(昭和2年)小田急線、東横線開通
〔写真1〜3〕イメージ:鉄道網開通
渋谷区役所(旧庁舎)、渋谷公会堂が落成
写真提供:渋谷区
渋谷区役所全景 1970年(昭和45年)撮影
みゆき族流行
みゆき族とは、銀座みゆき通りにたむろする男女のことである。高校生を中心に1964年夏頃に流行した。みゆき族の女性が持っていたフーテンバッグや、男性のアイビー派とコンチ派等、みゆき族の奇異なファッションが話題となった。
原宿族が登場
原宿族の多くは、20歳前後の若者で、自分名義の車を持っている上流階級の子弟だった。男性のファッションは当時流行していたアイビーやコンチネンタルが多く、女性は最先端のモッズファッションを取り入れている者も多かった。
有名雑誌が続々と創刊される
1970年代の雑誌には、女性ファッション誌として「an・an」「non-no」「JJ」「olive」等が創刊された。男性ファッション誌では「POPEYE」「ホットドッグ・プレス」「MEN'S NON-NO」等が創刊された。それに伴い、アンノン族・JJガール・ポパイ少年・オリーブ少女などといった言葉も生まれた。
渋谷の街の開発が進む
写真提供:渋谷区郷土写真保存会
渋谷駅周辺の首都高速3号線工事 1964年(昭和39年)9月